親子の関係。対立から対話へ。

最近は毎日文章を書いています。特に目的もなく日記みたいな感じです。

そんな中。自分自身の中にこの内容を持っていてもしょうがないなと思うようになりました。

ゴミ箱に捨てるのも勿体無いし、せっかくブログを持っているので、ブログにこの文章を保管しようかなと思いました。

一応、毎回題材があるみたいです。なので、日記なのですが題名をつけています。

そして、ブログに載せるということは、一般公開ということなので、読者がいることを想定し、多少の配慮として、前置きも一応このような感じでつけました。

完全に独り言の内省を文章化しているものですので、需要はないかとは思いますが、誰かの気づきになればと思う次第です。コメントなどを下さるとなおさら嬉しいです。

内容について、簡単に表しますと、私の脳内には「親みたいな自分」と「子供みたいな自分」がいます。その二人が毎日互いに対立しあっているのです。それが日々ストレスとなっているのでそれをどうにか解決できないものかと思考錯誤している様子です。

前置きはこのくらいにします。下記が本文です。(所々に*印をつけ、注釈を入れてあります。)

2017/02/01

私は今何をしているのか。

思考の吐き出しから様々な方向へ本日は行きました。

思考の吐き出しは、日々のやることを明確にしていく目的で取り組み始めましたが、

それをまとめてブログの記事にできるのではないかと思い立ち、記事制作へと移行しました。

記事制作へ着手したのは下記の二つです。

  1. 相反する思考と葛藤の終焉について
  2. 会話発想法を取り入れたことについて

*記事制作は結局あまりうまくいかず、完成しませんでした。

会話発想法では、子供思考と大人思考を用いて、解説を試みました。

私の子供思考は、葛藤を終焉させたがっています。

私の大人思考も葛藤を終焉させたがっています。

そこで、今日はその葛藤の終焉に取り掛かったというわけです。

それに対してさえも、親思考は言うのです。そんなことしていて良いのか?と

ここで行うべきは、子供と親のクリティカルシンキングです。

会話をしてみましょうか。

会話

子 : そんなことをしていてもいいのかというけれど具体的にあなたは私に何を求めてるの?

親 : 私は不安で仕方がないの!周りの目も気になるし

子 : 何が不安なの?

親 : あなたが生きていけなくなることが。

子 : 生きているよ?

親 : 将来生きていけなくなることが。

子 : なんで将来生きていけなくなるの?

親 : 就職できなくなるでしょう?世間からの評価も下がるし。

子 : 僕は就職する気はないよ。何かあったら自分でどうにかするもん。世間からの評価も気にしないよ。だってそもそも評価してくる人のことは好きじゃないもん。好きじゃない人に好かれようなんて思ってないもん。

何でそんなにも僕をあなたの理想に、この社会の定型に当てはめようとするの?

人間てそんなものなの?

人に言われたとおりに動くのが人間なの?

僕は、いろんなことをいろんな時に思うんだ。

友達に暴力を振るわれたらそのことについて考えるし、

お腹が空いたらどうしようか考えるんだよ。

眠い時は眠くなるし、何か興味が起きたらそれをやるんだよ。

僕は、そうやって動いているんだ。

僕はこうしなきゃいけないっていう型に合わせるなんてできないよ。

だって、僕はもう動いているんだ。

それを無理に押さえつけてほかのことをするなんてできないよ。

それをして何になるというの?

僕は、そうやって生きているんだ。

もしかしたら、あなたの言うことがわかる時が来るかもしれないけど。

あなたも、今したいことがあるはずだよ。

なんであなたは生きているの?

型にはめるためなの?

なんのために?

それがあなたにとっての幸せなの?

それであなたの不安はなくなるの?

なぜあなたは不安なの?

親 : 私はしにたくないの。

子 : しぬとはどういうこと?

親 : したいことはしてないのよ。

子 : あなたにとって生とはなに?

生とは世間が提示した目的を達成することなの?

親 : 全くわからない。

逆にあなたはどう思う?

子 : 不安は、世間の提示した価値観に添えなくなるところにあります。

世間の価値観は、暴力的だと私は思うのです。

なぜなら、もう私とあなたの関係自体が暴力的でしょう。

価値観を持たない時、あなたは不安になるのだと思います。

その不安を解消しようとするのでしょうか。

その不安とはなんなのでしょうか。

あなたはそれを知っていますか?

そもそも不安とはなんなのでしょうか?

それは安心を調べるとわかるのかもしれません。

安心はどんな時に感じることができるのでしょう。

それは、あなたのことを認めてくれる人が周りにいる時ではないでしょうか

あなたは何も強いられておらずに、愛されている状態ではないでしょうか。

愛とはなんでしょうか。

どの状態が愛なのでしょうか?

人があなたのことを認めることが愛なのでしょうか?

認めるとはなんでしょう

人によって認める基準は異なります。

なぜ人は基準を作るでしょうか。

その基準に満たせないものを排除しようとするのはなぜでしょうか。

それは暴力の一端を担います。

愛とはなんでしょうか。

それは、世間の価値観の中に存在するのでしょうか。

世間の価値観の中に見出した愛は、暴力を内包してはいないでしょうか。

それは愛と呼べるのでしょうか。

暴力などいるのでしょうか。

なぜ人は暴力をそこまでして保有するのでしょうか。

これは他人のことを話しているのではありません。

思考と記憶と観念にそのものついて問うているのです

私には二つの生き方があるように思います。

それは。理解を絶やさぬ生き方と組織や価値観に組みいる生き方です。

不安があるとき人は、組織や価値観に自分を埋没させようとします。

しかしそれでは、一向に何も解決しないのです。

そのことを人が見たとき、不安だけを残すこととなります。

その不安はなんなのでしょうか。

そして、一人理解とともにとどまることだけがあるのです。

そのときに、やってくるものがあります。

それを見ることしかできないのです。

私にとって生とはそういうものです。

あなたは、生まれたときに不安というものがあったのでしょうか。

それをあなたは今確かめることができます。

不安はなぜ生まれるのでしょうか。

いつ生まれたのでしょうか。

それは、個体に執着したときに生まれなかったでしょうか。

あなたは誰なのでしょうか。

あとがき

日記なので完全に自分の素を暴露しています。なので、読むのに苦痛に思う方が出てくるかもしれませんが、その場合は見ないことをお勧めします。←これは最初に言うべきだったかな;

*追記 2017/02/01

客観的に自分の文章を読んで、一つ思う事がありました。

人が不安を持っている時。誰かに認められたくなるものです。しかし、その誰かに認められるために行う行動には暴力を含んでいる事に気づきます。不安によって誰かしらに認められたいと努力をすることは、自分に鞭を打つことであり、結果自分に鞭を打つことを正当化してしまったり、自己否定や自己非難に陥るからです。

不安を感じた時は、誰かに慰めてほしかったり認めてほしかったりします。ですがそんな時こそ、自分とその不安という胸がキュンとする感覚に向き合うべき時なのだと思いました。

素の自分を認めてくれて、愛してくれる人が身近にいればこんなことは、そんな心配はあまりないかもしれません。ですが、そんな人が身近にいない場合。このようにして逐一、自分自身の不安と向き合っていかないとならないのだと思いました。

 

この日記を見て、何かしら助言をくださる方がいれば、それは心からの喜びです。私は、まだまだ未熟な何も知らない子供のような存在です。これからも、ブログは結構しょうもないことから、実用的なことまで、雑多に更新していきます。こんなブロクを見てくださるかたがるのかどうかはまったく予測ができませんが・・・

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